ウェブ解析士協会 初代代表理事・江尻俊章 協会設立の思い
ウェブ解析士協会は2012年4月に誕生し、国内外のビジネスの発展に貢献する人材を世に輩出してきました。そもそもなぜ「ウェブ解析士」であって「Web解析士」ではないのか? 協会設立のきっかけにもなった“失策”とは? 設立者で代表理事の江尻俊章氏が、設立の経緯とこれからを語ります。
(インタビュー・編集:上級ウェブ解析士・Ayan)
倒れるまで働く?恐怖の原体験
――アクセス解析に早くから着目し、中小企業の成果への貢献をライフワークにされています。原点はなんだったでしょうか。
江尻俊章代表理事(以下、江尻):私は福島県いわき市の出身です。父は私が生まれる前に土木建築の商社を創業し、経営していました。
幼い頃、父が何をしているのか全然知らなかったんです。朝7時には家を出て会社で社員に檄を飛ばし、夜は接待で午前1時、2時に帰宅。平日はこんな様子で家にいないうえ、土日はゴルフ接待です。土木建築の商社にとって接待は非常に重要でした。ゼネコン、政治家、自治体といかにつながり、案件を獲得してくるかという世界でしたから。
私が父の顔を初めてちゃんと見たのは小学1年生の時でした。脳卒中で倒れ、病院に運ばれてベッドにいる父を見たんです。手術のため頭髪をそっていました。脳を卵1個分くらい切除し左半身不随になりました。
怖くなりました。「父の会社を継ぐのかな」と思い始めた頃でしたので、脳みそを取るまで接待でお酒を飲まなくてはいけないのかと。それからは、大手企業や自治体の接待をしなくても父の会社が生き残る方法はなんだろうかと考えるようになりました。
初めは建て前、やがて本音に
江尻:大学生になり、就職活動の時期を迎えました。面接で「父の会社を継ぎます」なんて言ったら当然採用してもらえません。嘘はつかずに意思を通そうと思って「福島県いわき市の父の会社」の代わりに「地方の中小企業を元気にしたいです」と言いました。大学時代はゼミだけ毎週通って中小企業に関する論文ばかり書いていましたし、嘘ではなかったです。単位取得状況も厳しかったので自分の論文の要約を渡しながら、どこの会社の面接でも「中小企業を元気にしたいです」「おたくの会社はどんなことをさせてくれるんですか」と同じことを発言していました。
反応はよかったです。大手企業の人事の方が賛同してくれ、僕の中でも優先順位が変わりました。父の会社を継ぐよりも、地方の中小企業を元気にすることに人生をかけたいと思ったんです。
大手通信企業に内定をもらいました。当時は就職したい企業ランキングの最上位に、ソニーとともに入っていた会社ですね。「やった、ラッキー。就職活動が終わった」と思いました。
その後、内定をもらった人が呼ばれる飲み会、いわゆる内定者拘束というのがあって参加しました。品川のホテルを貸し切ってどんちゃん騒ぎです。宿泊もできるんですよ。飲み会の他の参加者は法政、明治といった大学の人がどうも多いようでした(私は立教大卒です)。なぜか早稲田、慶応の学生は誰一人いないんです。聞いたら、彼らは別のホテルが会場だと。東大と一橋はまた別のホテルらしいとも聞きました。
それを聞いて疑問を抱きました。「中小企業を元気にする仕事をしたい」と思っていたけど、社員が16万人もいる会社で本当に自分のしたいことができるのかと。人事担当者に問い合わせたら「わかりません」という回答でした。
就職活動で専務に直訴
江尻:内定は辞退して、就職活動をもう一度始めました。人事の担当者に「本当に私がやりたいことをさせてくれるのか」と質問すると「人事では答えられない」と言われました。それなら、もう一つ(決定権が)上の人に会わせてほしいとお願いし、とあるゴムの会社の専務に会わせてもらえることになりました。一部上場ですが、私は名前も知らなかった企業です。
酒の席で、その専務に私の思いを熱く語りました。すると「よしわかった。君に中小企業の仕事をやらせてあげるよ」と言ってもらえたんです。専務って会社のナンバー2ですから、さすがに本当にやらせてくれるだろうと思って内定をいただき、就職しました。
当時工場があった岡山に赴任し、確かに中小企業の仕事をさせてもらえました。私は岡山がどこにあるかも知らなかったのですが。工場の3交代勤務の実習を受け営業所に配属されました。何をしたかといえば飛び込み営業です。新規顧客開拓で、やり方もわからなかったのでまず電話帳の「あ」から順番に電話をかけたりもしました。出向した人たちと一緒に仕事をして、中小企業の現状も見つつ営業成績も徐々に上がるようになりました。
そんなある日。総社市の公園で休憩していた時のことです。
「俺がしたかったのは、1社1社への飛び込み営業ではなかったはず」
違和感を持っている自分に気付き、自問しました。
「中小企業をみんなまとめて元気にする方法があるんじゃないか?」
共同創業者・小坂氏との出会い
江尻:そこで思い立って、中小企業振興財団という第三セクターが主催する起業セミナーを受講しました。1997年ごろは起業が若い人に浸透しておらず、受講していたのは年配の方ばかりで、第二の人生のためにといった感じでした。そんな中、受講者の先輩、つまり先に起業した人の中に当時の私と同じくらいの年齢の人がいたんですね。さっそくその彼と一緒に飲んで、自分のしたいことについて話しました。
彼は新卒で銀行に就職した後2年で辞め、先輩と一緒に岡山で起業したそうです。「エジソンチャレンジ」という岡山県の事業で、2000万円くらい投資を受け、上場したらキャピタルゲインで返す仕組みでした。彼に「よっしゃ、いつか一緒に仕事しような」と言って別れました。
翌月、彼に「起業しようと思っている仲間と会わせたいから一緒に東京に行こう」と連絡を取り、新幹線で同行しました。乗車すると彼はやおら「俺、会社辞めたから」と言うんです。驚きました。こっちはまだガチガチのサラリーマンです。「やべえ、俺こいつの人生変えちまった」と思って、電車の中で一言も話せませんでした。この彼が、後に株式会社環の共同創業者となる小坂淳です。
それまでは「なんとなく起業できたらいいな」くらいだったのですが、小坂のために「起業しなきゃいけない」に変わりました。彼がいい具合にはしごを外してくれたのが、起業のきっかけの一つです。
――どんな事業で会社を起こそうと考えていたのでしょうか。
江尻:インターネットが「来る」とは思っていたけれど、当時まだ中小企業がインターネットを使うことはほとんどありませんでした。ご存じないかもしれません、「インターネット博覧会」が開かれたころです。Googleは創業したばかりで日本にまだ上陸していませんでした。中小企業の集客のお手伝いをしたいけれど、メルマガくらいしか手段がなかった時代です。何かいい方法はないか、と新宿に行くたびに紀伊国屋書店に行って情報収集をしました。
ある時『実践webマーケティング論』(1998年)というアクセス解析の本に出合いました。当時は世界的にもまだ珍しかったアクセス解析を翻訳した内容でした。2人とも「これだ」と電流が走ったわけです。中小企業は資金も技術も限られていますが、ニッチなビジネスを展開しています。ホームページを訪問するユーザーがどこからいつ来て何ページ見てといったことがわかれば、その企業が勝てるパターンが見つかるはずだと仮説を立て、起業に至りました。
そういうわけで、総社の公園と、小坂が会社を辞めたと告白した新幹線が創業の原点です(笑)。
――小坂さんとの出会いは就職して2年目、1998年ということでしょうか。
江尻:はい。その後1年くらいは準備をしていました。半年くらいは会社に勤めながらです。仲間たちから「辞めるのは早すぎる」と言われて。
その間、小坂は派遣社員などで食いつないでいました。彼は慶応のSFC(湘南藤沢キャンパスにある総合政策学部)卒業で元銀行マンで宅建、旅行取扱責任者の資格も持っていて超優秀なんですけど、岡山県では就職先が全然ありませんでした。しんどい時はパン工場で2交代シフトで働いていましたね。当時『だんご3兄弟』がブームで、だんごの増産で人手不足でした。私たちと朝ミーティングした時、だんごの汁がはねて眼鏡が真っ白な状態だったこともあります。「なんとかしなきゃいけない」と思いを強くしました。
ネットバブル末期に創業
――当時のインターネットをめぐる状況はいかがでしたか。
江尻:その頃の私はまだ一般ユーザーでしかなかったんです。勤務先には無理にお願いして東京に転勤させてもらい、社宅に住んでいました。起業を目指しているので会社の会議室を使うわけにもいかず、大倉山の公民館の部屋を「ホームページ作成」目的で借り、重たいノートパソコンとスキャニングを持ち込んでインターネットの勉強をしていました。まだブロードバンド普及前でしたので家でも電話回線で接続していましたね。
2000年の2月1日に起業しました。光通信とかクレイフィッシュとかの会社が、中小企業に対して「月1万円でドメインを取得できますよ」といったビジネスをしていた頃です。サイバーエージェントなど大手企業系の広告代理店も、ネット(IT)バブル崩壊でみんな一気に株価が下がった年でした。ベンチャーキャピタル(VC)に投資をお願いしようにも話すら聞いてくれない状況でした。
――「有限会社環」(後に株式会社化)の社名にはどんな思いを込めたのでしょうか。
江尻:よくあるカタカナの「ネット××」とか「サイバー△△」といった名前はやめようと仲間同士で縛りを設けました。漢字の社名にしようと。
小坂の大学の先輩に本城慎之介さんがいます。楽天の共同創業者ですね。旧日本興業銀行に就職しようとした時、旧興銀を辞めた三木谷浩史さんに楽天創業の話を聞いて感銘を受け、飛び込んだのだそうです。その話を聞いて、私たちも「楽天みたいに漢字の社名がいいね」と考えたのです。
インターネットに関する単語を英-中辞典で探しました。リンクが大事だと考えていたので、調べたところ動詞形が「連」で名詞形が「環」。「環」がいいと思いました。「楽天」のように2文字にしようと他にも探しましたが、結局1文字だけになりました。誰にでも覚えてもらいやすい、いい名前だったと思います。
ローラー作戦でニーズを確信
江尻:まずは中小企業のニーズが本当にあるかどうか調べるため、起業から半年くらいの間はアンケートを取っていました。企業に行って「インターネットをビジネスに使うつもりはありますか」「インターネットを使うとしたらどんなことが障害になっていますか」と質問したんですね。自宅のあった練馬区の白地図を買ってきて、訪問した会社は赤く塗りつぶしていきました。真っ赤にしたら何か見えてくるものがあるんじゃないかと。
400社くらい回り、けんもほろろに追い返されることもありました。みなさんインターネットに興味はあるんです。でも効果がわからないと。ということはアクセス解析が大事じゃないか、ニーズはあると確信しました。そこで「アクセス解析を使っておたくのホームページを分析して改善策をご提案しますよ」と話しました。ただ当時は集客手段が少なく、広告となると費用は一気に100万円を超えてしまい、中小企業にはとても手が出ません。そこで、メールマガジンなどを使って集客しようと提案していました。
――一軒一軒回っていく、いわゆるローラー作戦ですね。アナログです。一方でアクセス解析を経営改善に位置付ける、ウェブ解析士の原型は既にでき上がっていたのですね。創業1年目から順調でしたか。
江尻:黒字になるのがせいっぱいで、正直ビビりましたね。小坂は「給料を必ず払う」と縛りをかけました。彼の前の会社は2000万円の投資を受けましたが、温存することばかり考えてチャレンジをしなかったんだそうです。それでは成功も失敗もわからないと。自分たちに最低限でいいから給料を払って社会保険料もきちんと納める。そうじゃなければ起業しないという縛りです。
創業してからアンケートをするばかりで貯金がどんどん減っていき、当時の彼女から「あなたたち本当に大丈夫なの」と真顔で怒られましたね。今の妻です。その時は「あとで笑って話せるようになるよ」と答えましたが。
岡山で知り合った方の紹介で、ある企業の事業立ち上げのお手伝いをしました。当時ホームページの設計はデザイン中心で、制作するのは印刷会社とか技術会社でした。中小企業のマーケティングを考える企業はほぼなかったんです。そこでアクセス解析を使って事業を伸ばす戦略を考え、ビジネスのプロモーションをしました。初めての成功体験です。
「楽天ビジネス」で満点評価
江尻:ところがそこから先につながらない。当時ビジネスマッチングの手段は紹介か飛び込みしか選択肢がありませんでした。1年ほど後に本城さんに相談したところ、「楽天ビジネス」、今でいうクラウドソーシングのサイトを始めたから入らないかと誘われたんです。登録していたほとんどの人はフリーランスで、値段は安いのにクオリティーは非常に高いデザインの制作物を提供していました。
私たちもそちらに登録しました。ホームページ制作業者として会社を訪問しながら「アクセス解析をしてホームページの状況についてアドバイスをします」と商談をしました。するとみなさん、話は聞いてくれるんです。当時アクセス解析のツールを持っていませんでしたので、CGIという無料のプログラムをお客さまのホームページに設置してデータを見ました。「こんなワードで訪問していますよ」「こんなページが見られていますよ」と報告すると「おお〜ありがとう」とは言ってくれるんですが受注はできない。安くてクオリティーの高いデザイナーに契約を取られちゃうんです。
ただ商談の結果、評価はしてもらえました。「会ってよかった」と5点満点をくれる方たちばかりでしたね。商談するたびに満点だけは増えて、気が付いたら「楽天ビジネス」内で満点が最も多くなりました。
そうすると放っておいても問い合わせが来るようになりました。取引先が企業でないとだめという会社もあるわけです。私たちは一応法人ですから、そういった中堅企業や大手企業の代理店などから「楽天ビジネス」のおかげで仕事が入るようになりました。
「デザインもプログラムも得意じゃないけれど、サイト訪問客に関してお伝えすることはできます。そこから成果につなげましょう」。こうして「楽天ビジネス」の中では最も成功した企業となることができました。三木谷さんと握手した写真も残っています(笑)。
開発した解析ツールが新聞掲載
――CGIについてお話がありました。当時、アクセス解析をどのように行っていたのか教えてください。
江尻:当時、ホームページに「あなたはこのページの○人目の訪問者です」と知らせるカウンター機能を置いているサイトもありました。(1000人目、2000人目などの訪問者に自分がなる)「キリ番ゲット」とかありましたね。アクセス解析のツールはいくつかあり「見えないカウンター」などと呼ばれていました。でも機能としてはどれも中途半端だったので、初めてプログラマーを雇った時にオリジナルのCGIを作ってもらいました。
商品としてそのCGIを配ろうとしたら、プログラマーに「設定やサポートが大変」と反対されたため、プログラムは私たちの会社のサーバーに設置し、お客さまサイトには測定するための画像をはる形にしました。PRしたら日経産業新聞に掲載されましたよ。1日100件くらい問い合わせが入るようになりました。
サービス名は「アクセス刑事(デカ)」です。ネーミングについて「アクセスアナライザー」とか「ネットアナライザー」も考えましたが、中小企業にはとっつきにくいのでもっと親しみやすい名前をひねり出しました。候補として「アクセスGメン」「アクセス忍者」「アクセス刑事」と三つ挙げ、その中から決めたんです。ダッサい大きな画像を作り、こちらのバナーをはってもらう場合は無料、外す場合は有料で年間3000円に設定しました。
ezweb(現au)のガラケーにもすべて対応しました。「バナーが重たい」と指摘されたので軽量版のバナーを作ってもらいました。デザインがひよこでかわいかったので、こちらも評判になってさらに広がりました。わかりやすい名前は大切だと実感しましたね。
――Googleが日本に登場する前の話ですね。
江尻:2001年ごろですね。Googleはすでに創業していましたが、広告の効果測定しかできませんでした。その後urchinというサーバーインストール型の型のアクセス解析提供会社を買収し、ビーコン型の解析ツール、アクセスアナリティクスをリリースしたのが2005年です。
私たちはホームページ制作会社として事業の規模も伸び、2003年ごろには社員も14~15人に増えていました。
制作会社では飽き足らず
江尻:ところが、また総社の公園と同じことが起きたんです。ある日、ベランダでのんびりしていた時でした。
「俺はホームページ制作会社を興したかったんだっけ?」
ホームページを作るのは嫌いではないけれど、もっと多くの人を支援したい。
それならばこのサービスをもっと伸ばす方法を考えようと思い、学校、技術者と企業をマッチングする東京都主催のイベントに参加しました。「アクセス解析を使ってお客さまの問題点を自動的に報告するツールを作りたい」と述べたら「そんなことができる人はいない」と怒られました(笑)。「紹介してほしい」と食い下がったところ「POSデータを解析する先生がいる」と紹介されたのが、当時は立教大学にいらした守口剛先生でした。
お会いして話したところ「おもしろいね」と言っていただいたんです。「ウェブ解析をしたことはないから論文は一つもない。一から研究しよう」といって始まりました。最初は私たちのお客さまの企業のホームページを解析して、そのデータを元に結果を出し、助成金を得ました。五つくらいの大学の先生と共同研究しノウハウを蓄積しました。守口先生にはウェブ解析士協会を作る時にテキストの監修をお願いしました。今でもウェブ解析士認定試験公式テキストの監修をお願いしています。
その後ツールをホームページにバンドルする、ブログとバンドルするなどビジネスモデルを考えてベンチャーキャピタル(VC)に提案し、3億円くらい投資を受けることができました。いよいよ上場を目指す、それが2005年です。その数カ月後にGoogle アナリティクスが日本でのサービスを開始しました。「タダのサービスが、世界一がやってきたか……」と思いましたね。
「黒船」の到来と失策
――どう受け止めていたのでしょうか。
江尻:「黒船」の到来です。Google広告のおかげで法人向けにアクセス解析をするサービスが一気に広がり、日系のアクセス解析ツール会社が増えてきた段階です。そこに無料のGoogle アナリティクスとSite Catalyst(Abobe)という超高級ツールが同じタイミングで日本に入ってきて、一気に日本の市場を取られていくことになります。知人に「Site Catalystはやばい、どんなデータでも取れるらしい」と言われて驚いたことを覚えています。
私たちはそれまで年間3000円だったサービスを機能強化して年1万2000円にしようとしていました。にっくきライバルだった「Visionalist」が月額5万円で出したんです。「月5万円なんて払うやついるわけないじゃないか、何言ってるんだ」と思っていました。
でもGoogle広告の効果があまりに高く、企業は月数百万円とか数千万円とかを投資するようになりました。今は当たり前の話です。なので月5万円なんて微々たる額だったんですね。最初に年3000円で出したので、私たちは高価格化になかなか踏み切れませんでした。今振り返ればそこでビジネスを伸ばせなかった反省があります。
VCから投資を受けていましたので、上場はいつかと再三催促されました。「再来年です」と2回くらい回答しましたね。一方で事業を伸ばすために社員を増やし、新卒採用も始めて40人くらいになりました。
Google アナリティクスは最初、大したことはできなかったので軽視していましたが、彼らはどんどん機能を追加してきました。私たちも追いかけるようになりましたが、エンジニアが頑張って機能を追加しても向こうは無料サービスです。失注は防げるかもしれないけれど、新規開拓ができない状況になりました。2009年ごろです。
社員もオフィスも半分に縮小
江尻:このままでは負ける。会社の方向性をどうするか? 家族には実家に戻ってもらい、5日間ほど一人でじっくり考えました。
社員に「ツールを中小企業に販売するビジネスのままでは、僕らは負けます。だから何か違うことをします」と宣言しました。そのうえで、株式会社環との関係をもとに役割を分けることにしました。共にビジネスを行う人を「メンバー」、スキルや能力で貢献してもらう人を「パートナー」とし、40人以上いた社員は18人に減らしました。オフィスも半分に縮小しました。
私にとって、これが人生最大の転機でした。何をしていいかわからなかったので、いろいろなことに手を出していましたね。
――その状況を打開したのは何でしょうか。
江尻:ある社団法人から、アクセス解析についての資格認定講座を開発してほしいとご依頼がありました。「アクセスログ1級」の名称で、受講者が支払う費用は3万5000円。ただし「『シビラ』『アクセス刑事』など、私たちの会社が販売しているツールの話はしないでください」と言われました。それまで、私たちが培ってきたノウハウは無料で提供してきました。ツールを買ってもらいたいがためです。
正直、3万5000円で講座を受ける人がいるとは思えませんでした。でも「日本中の中小企業がウェブマーケティングを学ぶ機会を作る」という思いに共感し、お引き受けすることにしたんです。
「こんな講座は聞いたことない」
江尻:Google アナリティクスなどの解析ツールを導入してはいたものの、ほとんどの会社は使いこなせていなかった。だから私たちはツールを売りつつコンサルタントとして入り込む余地があったんです。クライアント企業の売り上げを40倍、50倍と伸ばした実績も多数ありました。あるいは逆に、社内外の圧力などいろいろな事情から売り上げを伸ばしきれずに終わったり、ツールを使いこなしてもらえなかった結果失敗したりした経験もありました。
そういった経験を全部コンテンツに注ぎ込み、講師としてお話ししました。月1万円そこそこのツールを売るのに苦労しているのに、講座だけでそんなに高いお金はいただけないと思ったんです。「データを見て、自分たちの勝ちパターンを見つけてください」と熱く語りました。
その結果「こんな素晴らしい講座は聞いたことがない」と、受講した方にとても満足していただけました。伝える価値がある内容なのだと気づいたきっかけです。
――ご自身で講座を主催するアイデアはお持ちでなかったのでしょうか。
江尻:当時はツール販売で頭がいっぱいでしたね。講座をしていく中で啓蒙して、直接は売れないけどゆくゆくは……と考えていました。
ところが「アクセスログ1級」を主催していた社団法人が、とあるきっかけでなくなってしまったんです。私の講座も紹介する場がなくなってしまい、自分でやらざるを得なくなりました。
当時、私は社団法人日本Webデザイナーズ協会(現・日本Web協会)の理事を務めていました。そちらを辞めて自分で社団法人を立ち上げ講座を開くつもりでしたが、同協会内で開講してほしいと頼まれたので準備しました。
「上級ウェブ解析士」の誕生
江尻:すでにSNSが登場し、アクセスログにとどまらず広告など含めて幅広い内容にしたかったので、名称は「ウェブ解析」にしました。2日間で7万円、認定受験料1万円の合計8万円。「上級ウェブ解析士」講座の誕生です。
――現在の上級ウェブ解析士でも、アクセス解析だけでなくビジネスを改善するための方法を学びますね。「中小企業のビジネスを良くしたい」と長年考えていらっしゃったことが結実しました。
江尻:はい。上級ウェブ解析士の学びでは実際にリポートを書いてもらったり、演習を通じて考えてもらったりします。中小企業の事業に貢献できる、地方で即戦力になる人材を育てたいと考えていました。私は地方を活性化したかったので、東京だけではつまらない。福岡、名古屋、北海道などに赴いては無料でセミナーを開き認知を高めようとしていました。会社もまだグラグラしていたのですが。
――黎明期に受講したのはどのような方々でしょうか。
江尻:そもそも地方でセミナーを開いてテキストを無料で配っても受講生は2人といった状況でした(苦笑)。多くはウェブ業界の方で、一般企業の方は少なかったです。ほとんどの方は私と同じ思いをお持ちでした。つまり「地元の企業を元気したい」「ウェブを改善するだけでなく事業を良くしたい」。しかしなかなか貢献できないと。
私が一番強調したのは「事業の成果に貢献するサービスを作りましょう」ということでした。「データを見てお客さまとのコミットメントを作る。共感を持ってビジネスを進め、事業を良くしましょう、このためにあらゆる手段を使いましょう。これが私たちのすべきことです」と。
この時に共感してくれた方が今でもウェブ解析士マスターとして残ってくださり、協会活動を担ってくださっています。そういった方に日本中で出会えたことが私の最大の成果です。就職活動の時に「中小企業の力になりたい」と言ったら人事担当者に良く思ってもらえたように、私と同じように感じてくれた方がいることに勇気づけられました。
「Web解析士」ではなく「ウェブ解析士」
――「ウェブ解析士」はなかなか個性的な資格名ですね。
江尻:恥ずかしいことに、最初は「ウェブ解析コンサルタント」でした。ウェブ解析士も候補の一つでしたが「ダサいかもしれない」という意見があったんですね。「コンサルタント」の方が高級感があると思い、初級の方を「初級ウェブ解析士」、上級を「上級ウェブ解析コンサルタント」にしました。すると今度は「どちらが上かわからない」「ウェブ解析士でいいのでは」と言われたので、そこに落ち着きました。
英語のWebか、日本語のウェブかでも迷いました。ただ私自身は英語にしないと決めていました。「アクセス刑事」の時もそうでしたが、中小企業にとってはかっこつけた名前ではなく、わかりやすく親しみがあり、相談してみたいと思える名前の方が大事です。ですからWebではなく「ウェブ」ですし、コンサルタントではなく「解析士」なんですね。
が、決まったのは講座開始より後でした。最初にウェブ解析士マスター講座を受けた方はまだ「ウェブ解析コンサルタント」だったんです。マスター講座の1日目に突然「すみません、申し訳ない。名前が変わりました。『ウェブ解析士』になりました」と宣言。みなさん「ええ〜〜!」です(笑)。今でも忘れられません。
――他にはどんな名称候補があったか、ぜひ教えてください!
江尻:「ウェブアナリスト」もありましたね。当時「アナリスト」が全然メジャーではなかったために「ウェブ解析コンサルタント」にしました。「ウェブ解析士」は半分冗談として候補に入れた感じです。「『解析士』なんて面白いんじゃない、『診断士』みたいで」と笑って入れたんです。
――カタカナの名前に対する忌避感があったのでしょうか。
江尻:実際には、名乗る時に「Web解析士」にしてしまう方もいらっしゃいました。「ウェブデザイン検定」ならわかりやすいですが、ウェブ解析士を紹介すると、相手が知らなければ「何これ」と聞かれます。最初は「変に思われてしまうのも嫌だな」と思っていました。
しかしフタを開けてみたら、ウェブ解析士がどんな資格かを説明することになります。事業に貢献する人材を育てる目的であることや公式テキスト、資料、成果物などしっかりした実績を示してお伝えすれば、クライアントから信頼を得ることにつながります。多少ダサくても、名前に対する問いが出るくらいがちょうどいいんです。「アクセス刑事」もそうでした。何それ、と聞かれて「実はこんなことがわかっちゃうんですよ」とお答えしていました。これが「Webアナライザー」だったら「なんだか難しそうだな……」と躊躇(ちゅうちょ)する中小企業の方がいたでしょうね。「ウェブアナリスト」とか「マーケティングアナリスト」にしなくてよかったと今でも感じています。ボケてみて突っ込まれるくらいがいい。
ウェブ解析士協会の発足
――「抜け感」の大事さがよくわかりますね。さて、2012年には日本Webデザイナーズ協会から離れ、ウェブ解析士協会が発足します。経緯を教えてください。
江尻:ウェブ解析士が増え、1000人を超えるまでに広がりました。一方で日本Webデザイナーズ協会の会員は100人前後しかいない。協会としてどうするか話し合い、分かれて独立したんです。ウェブ解析士協会は資格と人材育成を担うことになりました。
一方、株式会社環はVCから投資を受けていました。上場はずっと先延ばしにしていましたが、ファンドには償還期限があります。どうするか話し合い、バイアウトなどさまざまな可能性を模索する中、ソフトバンク・テクノロジーから子会社化のお話がありました。気乗りがしなかったのですが、最後の最後に小坂からこう切り出されました。
「お前、ソフトバンク・テクノロジーに入ったら大企業の役員になれるぞ。そのままソフトバンクの役員とか代表になるのもおもしろいんじゃないか」
私はそんな人生考えたこともありませんでした。それもおもしろいな、じゃあやってみるかと思って心を決め、株式会社環はソフトバンク・テクノロジーの一員になりました。2013年のことです。
その2日後、ソフトバンクグループ全社の幹部が会長の孫正義さんの話を聞く集まりに参加し、孫さんの話に「すげぇな」と思ったことを覚えています。
「これは俺じゃない」
――株式会社環の代表ではあったんですね。
江尻:そうです。子会社化後すぐ、ソフトバンク・テクノロジーの役員会に出席しました。同社の事業は幅広く、各役員が話をします。社長がその会議のマネジメントをしているのを見て僕は気づいてしまったんですね。
「自分はここの役員をやりたいと全く思ってない」
役員というものをぼんやり考えていましたが、ソフトバンク・テクノロジーの役員は、会社のすべての事業に対して責任を持ちます。しかし私は、ウェブ解析を使って成果を上げる、中小企業を元気にすることには責任を持ちますが、オフィスツールにもセキュリティーソフトにも、ドメインにも全然興味がない。いわんや役員のマネジメントをやと、入って3日後に気づいてしまったんです。「これは俺じゃない」と。
あ、大企業の社長は素晴らしいと思いますよ! でも私は、自分の生命時間を24時間365日、中小企業を元気にするために使いたいと思ったんです。
――いきなり辞めたわけではありませんよね……?
江尻:2年間は勤めなければいけない規定があるので、3年目に入る時に退任を申し出ました。一度は引き止められ、もう1年は続けた後に再度同じことを申し出てやっと認められました。
一応、自分なりにジョインしようと頑張ったんです。でも続ければ続けるほど違和感が強くなってしまいましたね。彼らの仕事は大手企業の案件を獲得するのが大事なので、矛盾を感じながらの2年間でした。
コミュニティーを作り社会に貢献
――辞めた後のために何か準備していましたか。
江尻:私の仕事の半分以上はウェブ解析士協会をどう活気づけるかに関するものでした。ソフトバンクも海外展開に力を入れ、米スプリント・ネクステル社を買収した頃です。ソフトバンク・テクノロジーも海外事業を視野に入れていました。それを機に私も英語の勉強を始めました。当時41歳でしたね。
シンガポールなどあちこちに赴き、ウェブ解析士の講座を開きました。英語の勉強と、ソフトバンクの仕事とのシナジーを模索していました。
――「生命時間」と独特な言葉をお使いになりました。これまでの生命時間の使い方に点数をつけるとすると何点でしょうか。
江尻:今までは80〜90点くらいですね。ウェブ解析士協会とその仕組みがなかったら知り合えていなかったたくさんの人たちとつながり、私の人生は大きく変わりました。ウェブ解析士を受講してくれた一人一人に感謝しています。受講段階ですでに何社も会社を持っている方もいれば、独立開業したころにウェブ解析士マスターとなり、その後何人も従業員を抱えるまでに事業を成長させた方もいます。みなさんの成長をとても楽しく拝見していますし、地方の中小企業のために思い切り自分の生命時間を使えたと思っています。
これから先はウェブ解析士にとどまらず、国内外で私がしたような経験ができる人を増やしたいです。つまりプロフェッショナルが集まるコミュニティーを作り、皆で成長して社会に貢献したい。企業ではなく個人、もしかしたら学生のコミュニティーかもしれません。私の経験を共有し、皆で集まって同じ目標に向かって進む楽しさを伝えたいです。SNSマネージャーやウェブ広告マネージャーなど、ウェブ解析士協会内でさまざまな講座ができました。ウェブに限らずもっとたくさんの分野のコミュニティー作りを手伝おうと思っています。
月の半分は福島に拠点を置いています。私の出身地でもあり、東日本大震災の福島第一原発事故でブランドイメージが最悪な状態になってしまった場所です。ここを、世界中で一番住みたいまちにしたいとミッションを掲げました。私の人生を賭けて追求してきたマーケティングの知識と経験を最大限に生かして頑張っています。これができれば、生命時間の使い方として120点をつけられます。
――ご自身の柱を武器に、原点に戻って挑戦を始められたのですね。福島で具体的に何をするかビジョンがありましたら教えてください。
江尻:震災時、復興支援しながらウェブ解析士講座を無料で開いたり、4トントラックで水を運んでクレープを作って被災した方に食べていただいたりと半年間ボランティアで被災地に通いました。
ただ、無力感がありました。3月14日、福島第1原発の4号機が水素爆発を起こした日、私は緊急車両を手配して被災地にボランティアで入りました。緊急時に物資の提供はできるんです。ところが、いったん落ち着いたら必要になるのは仕事であり、産業です。そこに対して私は何もできず、無力でした。
ソフトバンク・テクノロジーに参加してから世界中を旅しました。福島を元気にする力をつけるための10年間でもありました。この経験を生かして今、全力を費やしています。
世界中から若者が集まるまちに
江尻:今やりたいことはイノベーションです。起業する、新たなチャレンジをする若者を福島でたくさん育てたい。例えばデジタルマーケティングといった武器になるものを与えて、チャレンジャーが集まるまち・福島にしたい。震災があり、原発事故があったけれど乗り越えて前向きに動いている人がたくさんいる。そこに魅力を感じて、世界中から「自分も」と若者が集まってくる。そんなまちにするため、私の持っているマーケティングのノウハウや、私が知っているいろいろなスペシャリストと協力して貢献したいですね。
――ビジョンを最も伝えたいのはどの世代ですか。
江尻:大学生、高校生かな。進路指導の際、大学や高校の先生は狭いところをみている気がするんです。マーケティングやデジタルで人を幸せにする産業、仕事があることを多くの高校生は気づかずにいます。デザインが好きな高校生がウェブデザインに触れることはあっても、マーケティングの世界に触れる機会はないと思います。
マーケティングは売り上げを何十倍にも伸ばせるし、売る人も買う人も幸せになる素敵な仕事です。これに人生を賭けてもいい若者が増えれば、世界は多分変わっていきますよ。
――最後に、ウェブ解析士についてアピールをお願いします。
江尻:ウェブ解析士は民間資格なので、持っているだけでは価値はありません。ただしウェブ解析士協会にいるのは、事業の成果への貢献を真剣に考えている人たちばかりです。資格取得は手段にすぎません。その先でさまざまな専門家とつながり、ご自身のマインドと技術を高める踏み台としてウェブ解析士協会をどんどん利用してくださいね。